巨木を前に、いつも思うこと

相和地域の三嶋社を偶然みつけて、まだ半年ちょっとした経っていないことに、こないだほんとうにびっくりした。

あのとき痛烈に思ったこと… 「ひとりでも多くの人と、この自然のすばらしさを共有したい。そして残さなければならない。」それは「秦野の野菜をひとりでも多くの人に食べてもらわないと。」っていう、誰に頼まれたわけでもないのに勝手に前のめりで遂行しているそれにとても似ている。

で…巨木を目の前に、いつも思うこと。

樹齢400年のクスノキも、とおくからみたら小さなブロッコリーで。さらに地球の、宇宙のスペクタルで考えたとき、宇宙がわたしの体だとすると、このクスノキはわたしの細胞のひとつよりちっちゃいもので。

でも、いつも近づくにつれ、わたしはこのクスノキの大きさにおののく。

下から見上げたときにみえる伸びた枝の一本一本と、その先の葉の一枚一枚。うっとりするほどに正確な葉脈。そして、目にはみえないけれど、この枝葉の何倍もしっかりと地に張り巡らされているであろう根っこたちの存在に、毎回毎回感嘆する。

クスノキ自体が宇宙でもあるし、幹にくっついている小さな虫でさえ、自分のなかに宇宙をもっているということにどきどきしながら、いつもなにかを思いださなきゃいけない気がして深呼吸してしまう。ここにいる小さな虫は、いま自分のいる世界が、宇宙の一部の、さらにさらに微細な一本のクスノキのだなんてわかるわけないと思う反面、それも漠然とぜんぶ知ってる気もする。

でも、そんなことよりも不思議なこと… 地球上の生き物における「生命をつながきゃ!」という、微生物からクジラまでみんなが持ってる想念のシステム。

植物も動物もみんな、どんなに危険でも、過酷でも、命をつなげようとする。

なんで?

そして、生命をつないでいくというミッションとは別にあると思うこと。それは、地球上の生き物はみんな、うまれる前にかみさまと、ある約束をしてきたんだと思う。それを果たすために生きているんだと思う。

で、その約束をはたすことっていうのが、学びなんだと思う。で、その約束をわすれちゃってると、生きるのがとっても苦しくなってしまうんだと思う。

それがなにかとたずねたら… いまのわたしがそれをコトバにしてしまっては、まだまだ陳腐なものになってしまうので、とにかく、その(たぶん合ってる)やくそくを、日々実践してみようと思う。

ながながと、一気に。

今日は急遽、伊勢原の山の百貨店さんに伺うことに。日々のすばらしいすべてのご縁に、深謝して。