以前残した備忘録831の日をおえてが、バナネイラの在りかたのA面だとすると。
実はもうひとつ、ずっと漠然とあるB面の、勝手に役割だと思っていることが、「秦野というすばらしい地を大切にしていくためになにかをする」こと。(この「なにか」が、ずっとモヤっとしているのだけれど)
秦野って、すべてがほんとうにすばらしく。湧き水、山脈、富士山のみえる景色… そしてなにより、その澄んだ空気というか、波動。
簡単かつ極端にいうと、伊勢神宮に漂っている空気のような。「きっとここには、都会からは姿を消してしまった”かみさま”が存在するんだろうな」というようなあの独特な感じが、畑にいても、お蕎麦屋さんにいても、ずーっとゆるーくある。
秦野に限らず田舎の方にいくと「氏神さま」や「天王さま」農耕儀礼に関係する行事がたくさん残っているのがみてとれる。そして、それにはその土地の生活や人の由来がちゃんと結びついているから、そういう空気に触れるたびに「八百万の神」の存在は、自分のなかではすっかりあたりまえになっていて。
で、秦野はきっとそれがとても色濃くあるから野菜もおいしくできるんだろうなぁと思っていたし、秦野付近がすべての神さまの発祥の地なんじゃないかということや、神奈川という地には「神」が入っていたりとかすることに気づかせてもらったりと、ここ数年でいろいろ思うことがあって。
自然っていう漢字って、昔は「じねん」と読んでいたそうで。「自然=自ずとそうなる=自然に生かされている」ということ。生かされている=共生。「共生=共に生み出していく」それが信仰へとつながり「神々への感謝=神道の心」という、古くから日本人の精神に息づいているものにつながるんだと思うのだけれど、なんと英語のNature(自然)の元になっているラテン語も「自ずとそうなる」という意味なのだそうで。カタカムナでみても「シ(示し・現象・死)ゼ(引き受ける)ン(ゼを強める)」…すべてを引き受ける… (さすがカタカムナ…)
ほんと、なんでも示されることはおなじで、やっぱりそこに辿りつくから「ほぉぉ」って腑におちてしまうし、それが軸にあると、惑わされることも迷うことも、不安になることもなくなる。
で、先日、秦野を訪れたときに偶然とおりかかって、あまりに引き込まれて立ち寄った「三嶋神社」の本殿の脇の木の棒に、見落としかねないほど小さく「巨木めぐり⇨」って書いてあるのをみつけて、獣道をすすんでいくと…そこにはこの上なく荘厳に佇む巨木(敬称をおつけしたいけどみあたらない)がたくさんあって。
それはもう、ものすごいエネルギーで。しかも、いくつもいくつもあり。
秦野という、すばらしい地。
登山をする人には知られているようだけれど、こんなにすばらしい秦野という場所を、関東の人たちもあまり知らない。そしてきっと、日本という国には、こういうすばらしいスポットがたくさんあるんだと思うのだけど。
わたしはこの「秦野」を、縁あってみつけてしまったわけで。
それを知らない人に伝えていくことがとても重要で、ひとりでも多くの人とこの自然のすばらしさを共有したいと、巨木をめぐりながらものすごく強く感じ。
いままではただただ「野菜のエネルギーが濃いんです」「落花生が特産です」「湧き水を汲みに県外からも来るそうです」と、そんなふうにとっかかりだけ伝えておわってしまっていた。でも、もっと具体的に秦野の自然のすばらしさを伝えることで、
自然である神々への感謝をする=循環と調和
…そんな意識につなげられるんじゃないかと。
バナネイランチの野菜を通じて…また、こうやってブログで発信することで、秦野を知る人が増えて訪れるきっかけになったり、畑に触れる機会を得たり。
そうやって、無農薬・無化学肥料栽培などのずーっと循環していける方法で野菜をつくっている生産者さんの存在や、自然あふれる地のすばらしさを伝えるコンテンツとして、ひとつのメディアになることが、バナネイラの役割なんじゃないかと。
森を守り、自然と共生していくことの大切さを、伝えられるんじゃないかと。
…ここまでかいて、役割にA面もB面もなかった。むしろこっちがA面かも?と思い始めてしまったところで。。そして冒頭の…「なにかをする」は、もうバナネイラという「場」ができたことで始められているのかもしれない… そんなふうに思えたところで。。
今日はここまで。謝謝。